平成22313
36回武庫川エコハイク
「名塩川とくらがり街道」実施報告書
エコグループ・武庫川
■日 時:平成22年(2010年)3月13日(土)9:30〜15:30   天候:曇り
■行 程:JR生瀬駅前(旧生瀬宿場町/駅弁淡路屋など)―大多田川・有馬街道(有馬高槻構造線)−木之元地蔵(聖徳太子/日本三体地蔵)―名塩川本川合流点(武庫川)−くらがり街道―名塩ニュータウン(斜行エレベーター)−名塩川渓谷(自然散策路)−蘭学通り・名塩蘭学塾(緒方洪庵と八重夫人/伊藤慎蔵)−名塩八幡神社(昼食)−谷徳製紙所(人間国宝:谷野武信氏の実演)−教行寺(名塩御坊/お箸杉)−名塩和紙学習館―卵塔(蓮如上人)−名塩貯水池と名塩浄水場―支流の合流点(左岸/右岸)―茶園バス停(自由解散)−独鈷水(有馬三名水/名塩川源流)―赤坂峠バス停(解散)
( )内は説明項目、資料(地図説明書)配布
■参加者:67名(スタッフ5人含む)
一般参加者は宝塚市・西宮市・伊丹市・尼崎市・三田市の流域各市からの参加の他、流域外からは川西市・神戸市・明石市・吹田市・大阪市などから参加をえた。
■所 感:3月に入って晴天は4〜5日程で雨の多い年、今日は曇り空で気になる天候であったが67名と多数の方の参加をえて開催出来た。今回のガイドには西宮ボランティアで語り部をされている平田三千子さんの応援を頂いて実施致しました。身近にある武庫川流域「名塩」の貴重な歴史を知ってもらう為に、また今回は多数の参加を頂いたので後方の方は説明が聞きつらい点があったと思いますので、説明書と重なりますが、今日案内の中で2、3印象の深いものを振り返ってみます。
旧淡路屋を見学して
 明治30年後半、当時有馬口駅(現生瀬駅)は有馬温泉の玄関口として観光客で大変賑わった。「淡路屋」は明治初期大阪曽根崎新地で料亭を営んでいた。明治37年神崎(現尼崎)〜有馬口(現生瀬)間で鉄道列車内飲食物の販売を開始、その後「淡路屋弁当」販売、中でも「鮎寿司」は名物駅弁だった。宝塚駅前にて「淡路屋食堂」も開店し、この地に非常になじみの深い会社だった。
名塩蘭学塾
 名塩紙でも有名な西宮市名塩は蘭学の地でもあります。当時は「蘭学」が西洋医学の代表で、日本の医学や物理学の進歩に影響を与えました。江戸時代の終り頃、名塩で紙すきの仕事をしていた億川百記も蘭学を学んだ、娘八重は百記と共に学んだ緒方洪庵と結婚、洪庵は名塩村で蘭学塾を開きます。田舎の村で勉強する所の無かった時代、新しい西洋の学問が学べると名塩の青年達、また丹波や播州からも塾生が集まり多くの立派な人がこの塾から出たといわれています。八重の胸像に「蘭学の泉 ここに湧き出ず」と刻まれてます。
名塩紙の製作技術者谷野武信(重要無形文化財保持者・人間国宝)さんの製作実演を見学して
 名塩は西宮北部の山の中にあり田の面積が少なく水の温度も低いので、米が作りにくい所で農業だけでは成り立たず、紙の原料となる雁皮が山に自生するを利用して製紙を生業とする様になりました。江戸中期には「名塩千軒」とも言われた名塩紙の生産者も現在は2軒のみとなりました。「泥入り間似合い紙」という襖用紙は、雁皮を原料とする紙で、名塩近辺で採取される鉱物が混入され、火を付けてもすぐに消えてしまう為古くから神社・仏閣・城館の襖用紙として使われてきました。混入する鉱物が、中国自動車道と大規模団地が出来て大半取れなくなったと言われている。
高速道路建設、ニュータウン建設と開発優先の政策も、地域の環境、文化など失う財産をどう考えて進められているか、また考えさせられた。ニュータウンから自然散策路が整備されており名塩川渓谷沿いは癒しの森だ、気持良い清流の音など景観が良い。現在上流域ではどんどん開発が進んでいるが、気になる事だった。

@木之元地蔵

E名塩の町を流れる名塩川

A名塩川合流点

F人間国宝 谷野武信氏 名塩紙すき実演

BJR西宮名塩駅付近の名塩川

G教行寺鼓楼

C名塩川渓谷

H教行寺本堂

D緒方洪庵 八重夫人の胸像(蘭学通り)

名塩川源頭 独鈷水
文/上田(宏)、写真・編集/平山
トップに戻る
inserted by FC2 system